昭和初期から戦前までの昭和時代の駄菓子年表を紹介します。
「都こんぶ」の中野物産が酢昆布の製造を始めています。
今は酢昆布といえば、あの赤色の紙箱に入ったものを思い浮かべますね。
紙芝居を見るときには駄菓子を買う決まりがありました。
この頃から水飴が売られるようになりました。
水飴をこねると白っぽくなりますね。
一番白くできた子は景品がもらえたそうです。
きっとみんな水飴を一生懸命こねながら紙芝居を見たのでしょうね。
あの不思議な文章と絵、そして謎の点数が気になる点取占いが発売されたのもこの頃です。
ナインティナインのオールナイトニッポンのジングルでもおなじみですよね。
当時は点取辻占という名前でした。
占いに「点」が付いている理由は、玩具として子供たちが「勝った、負けた」を楽しむために付けているだけらしいです。占いの中身とはぜんぜん関係ないそうです。
詞書きが不条理かつ意味不明なのは、宮城社長が思い付くままにメチャクチャに作り出したからだそうです。枕元にメモを置いて、夢うつつの中で思い付いた言葉を書き出したりするなど、できるだけ支離滅裂になるように心がけて書いたものだそうです。
昭和初期~戦前の駄菓子年表
西暦 | 年号 | 出来事 |
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1927 | 昭和2年 | 岐阜市の前田銀三「連続飴」実用新案 |
名古屋市の松浦益治「絵模様付き砂糖紙」実用新案 | ||
美濃鎌から美濃金製菓が独立、花串カステラを製造 | ||
昭和2年2月 | 懸賞駄菓子の検挙、告発相次ぐ | |
昭和2年ごろ | 紙芝居屋の見物料として棒飴が1本1銭で発売される | |
1928 | 昭和3年 | 大阪市の村上斎「小物品入り菓子」実用新案 |
名古屋食玩組合が結成 | ||
1929 | 昭和4年 | あんこ玉の植田製菓創業 |
神奈川県の岩本三造「巻煙草型菓子」実用新案 | ||
名古屋市の伊東益二郎「隆起模様付きニッキ紙」実用新案 | ||
1930 | 昭和5年 | 宇治山田市の笹路秀「連続蛤型寒天菓子」実用新案 |
1931 | 昭和6年 | 東京市京橋区の藤井林右衛門「転球盤チョコレート」実用新案 |
中野正一が中野商店を創業し酢昆布を製造 | ||
1932 | 昭和7年 | 新潟県の吉田吉造「巻煙草型菓子」実用新案 |
大阪市の鍵田篤司「ゼリーようかん充填菓子」実用新案 | ||
大阪市の大井房三「当てモノに供する紙に貼りたる菓子」 実用新案 |
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1933 | 昭和8年 | 大阪市の斎藤富之進「発音菓子」実用新案 |
昭和8年ごろ | 紙芝居屋の見物料として固形飴に続き水飴が登場 | |
昭和8年ごろ | 森又本店の森秋廣が東海製菓のキャラメルを「森又の バラキャラ」と称して5個1銭で売る |
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1934 | 昭和9年 | ハリヤ製菓(大正4年創業)、コロイド製カルシウム、 ゲルカルク入り「ケンコーチョコレート」発売 |
東京市神田区の石井関一「菓子笛」実用新案 | ||
大阪市の斎藤富之進「笛菓子」実用新案 | ||
昭和9年ごろ | 宮城隆一が甘くて赤い、仁丹状の食玩を製造 | |
1935 | 昭和10年 | 大阪市の安田伊一「豆菓子入り飴菓子」実用新案 |
昭和10年ごろ | 紙芝居で、水飴を割り箸2本でこねさせて、いちばん 白くなった者に商品を与えることが流行 |
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昭和10年ごろ | 宮城隆一が点取占いの原型である「点取辻占」を開発 | |
1938 | 昭和12年 | 名古屋のマルイ製菓、ラムネ製造 |
1939 | 昭和13年 | 長崎屋(現・ナガサキヤ)チョコレート発売 |
野田製菓「寒天菓子」発売 | ||
大阪市の阿坂仙次「笛菓子」実用新案 | ||
渡辺製菓、全購連と業務提携で「クミアンキャラメル」発売 | ||
1940 | 昭和14年 | 大阪市の斎藤富之進「糖菓子独楽」実用新案 |
1941 | 昭和15年 | 東京都浅草区の広瀬作治「三角キャンデー」実用新案 |
昭和15年4月 | 大阪・立花製菓がビタミン菓子「日ノ丸」発売 | |
昭和15年9月 | 砂糖配給制実施 | |
1942 | 昭和16年 | 大阪市の酒井治兵衛「砲弾状の喫煙パイプ型菓子」 実用新案 |
富士会の五島氏、食料統制のなか、さつまいも粉末を 原料にした紙芝居用せんべいの販売権を得る |
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1943 | 昭和17年 | 山本宗二郎、オブラートでできたこよりにニッキや ハッカの汁を染み込ませたものを考案 |
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